どうして鍼灸は効くの(14)?
こんにちは。渋谷区幡ヶ谷の胡鍼灸治療院です。
前回のシリーズでは、「代表的な鍼灸理論」というタイトルで、「天人合一」の思想と「整体・統合」の観念、陰陽学説、五行学説、蔵象学説、気、血、津液(水)の学説を説明しましたが、今日はその続きの病因論から書いていきます。
6、病因論
中医学では、病気を引き起こす原因には内因、外因、不内外因があると考えています。
内因とは、喜、怒、哀、思、悲、恐、驚、憂など人自身の激しい情緒の変化です。内因により、気血の流れが乱れたり、陰陽のバランスが崩れたり、五臓六腑が傷められて機能障害が起こります。このような激しい情緒変化は西洋医学でいう精神的ストレスのことで、数千年前から、中医学は既に精神的ストレスが健康に大きな障害をもたらすことを明記し、あらゆる診断につき、この内因を非常に重要視しています。
外因とは、風、暑、湿、燥、寒、火(熱)の六邪気と癘気(瘟疫の気)を指します。人の体を取り囲む気候の激しい変化が病気を引き起こすのは容易に理解できます。中医学の考えは異常な気候変化はすべて邪気になり、人間の健康状態を損なう存在です。例えば、普通の風邪は風の邪気(風邪)が体内に入り込むことで引き起こした病気です。もし風邪と湿邪が一緒に足元から体内に侵入すると、足首や膝などの関節が腫れて痛くなると考えます。これを「風湿病」といい、西洋医学の「リウマチ性関節症」がこの風湿病に該当します。またこれからの季節に増えてくる熱中症は暑邪によるものです。
不内外因とは、過労と過逸(運動不足)、過食、不適切なダイエット、偏食による栄養失調、食中毒、規則正しくない生活、寝不足、クーラーによる冷え症、また打撲、ねんざ、骨折、やけど、凍傷、交通事故などのことが病因として健康被害をもたらすものです。
四、弁証・論治
中医学では、病気を診断することを「弁証」、治療方法を決める(論じる)のを「論治」といいます。臨床診察手法である「望診・聞診・問診・切診」の四診により診断を下して(弁証)、弁証の結果によって治療方法を論じます(論治)。
望診の「望」は見るという意味です。患者さんの顔つき・目ざし・精神状態を見るのは「望神」、肌のつや・色・皮膚疹の有無などを見るのは「望色」、体つき・姿勢・奇形の有無などを見るのは「望形態」、また五官(目・舌・口・鼻・耳)、毛髪の状態に加え、患者さんの分泌物・排出物も必要に応じて見ます。
聞診の「聞」は「聴く」と「匂いを嗅ぐ」という二つの意味があります。「聴く」は患者さんの声(話し声・呼吸音・咳の音・嘔吐の音・げっぷの音など)を聴きます。「嗅ぐ」は患者さんの体臭・口臭・汗臭・鼻臭などの匂いを嗅ぐことです。
問診は西洋医学の問診と同じ意味で、なくてはならない大事な診察手段です。
切診の「切」は患者さんの体のある部位に手を当てることをいい、「脈診」と「按診」に分けます。「脈診」は医者が指で患者さんの手首にある橈骨動脈の拍動様相から健康状態、五臓六腑の病気、病気の進退などを診断します。「按診」は患者さんの体表を触診したり、経絡に沿って触診したりすることです。
中医学の医師は四診により患者さんの健康状態に関するすべての情報を得て診断を下した後、具体的な治療方法を決めます。治療方法は、漢方薬、鍼・灸、按摩・指圧、気功などが挙げられます。
余談ですが、『難経・六十一難』には「経言望而知之謂之神、聞而知之謂之聖、問而知之謂之工、切脈而知之謂之巧」という文言があります。つまり、望診のみで弁証を立てられるのは最高の技術を持つ「神」レベルの医者だということです。
五、鍼灸はいつ頃日本に伝わってきたのか
欽明天皇の時代に当たる550年に中国の灸治術は日本に伝えられ、二年後の552年に中国から『鍼経』一式が欽明天皇に贈呈されました。更に562年に中国の呉人・知聡が『明堂図』160卷を持って来日し、鍼灸治療法が日本国内に広まっていきました。飛鳥時代の大宝元年(701年)に大宝律令が制定され、宮内省典薬寮に鍼師、鍼博士、鍼生が置かれました。嵯峨天皇の時代に菅原梶成、下道門継、丹波忠明などの鍼博士がいました。同じ鍼博士の丹波康頼が『医心方』三十卷(984年)を選著し、現存する日本最古の医学書になっています。『医心方』は中国隋・唐時代の医説・医術を収録し、鍼灸に関する治療法、経穴の位置、主治疾患などを詳細に記録しています。後世医学発展のための基礎を築いただけでなく、唐以前の医学文献を研究する理論根拠も提供しました。現在は東京国立博物館に所蔵し、国宝となっています。
丹波康頼のあとも数々の優秀な医家と臨床家が現れ、中医学の精粋を取り入れた上で、日本の風土環境、生活習慣、健康状況などと結びつけ、日本人に合う医学(東洋医学)を作り上げました。またたくさんの素晴らしい医学専門書は後世に残しました。中には『頓医抄』、『万安方』(鎌倉・1315年、梶原性全)、『啓迪集』(安土・1574年、曲直瀬道三)、『杉山流三部書』(江戸前期・1680年頃、杉山和一)、『十四経発揮和語鈔』(江戸中期・1700年頃、岡本一抱)、『鍼灸則』(江戸中期・1766年、菅沼周圭)、『鍼灸説約』(江戸後期・1811年)、また近代には『灸法の医学的研究』(昭和4年・1929年、原志免太郎)『鍼灸真髄』(昭和16年・1941年、代田文誌)などが挙げられます。
鍼灸治療は民間で広く応用されたのは鎌倉、室町の戦乱時代を迎えた後、この頃の鍼療法は日本人の体質に合うように鍼の形、刺鍼(鍼を刺す)の仕方などを改良されていきました。特に杉山和一(1610〜1694)の「管鍼法」の創始により鍼治療の臨床に多大の利便をもたらしました。「管鍼法」というのは鍼をやや短い管(「鍼管」といいます)に入れ、わずかに出た鍼柄の部分を叩いてハリを皮膚に刺入することです。日本で使っている鍼は中国鍼よりずっと細い(一番細いのは直径がわずか0.12㎜)ですので、管を使えば簡単に刺鍼できますし、刺鍼時の痛みもほとんど感じません。鍼灸師にとって操作しやすく、患者さんにとっても苦痛はありませんので、一石二鳥の刺鍼法です。やさしい日本鍼は海外でも人気があるそうです。当治療院は日本鍼と中国鍼の両方を場面によって使い分けています。
一方で灸療法はその手軽さから急速に民間に広がっていきました。当時は主に僧侶が医療家を兼ねて病気の診療を施したので、有名なお寺の名前がつく「弘法の灸」「不動の灸」などが現在まで伝えられています。そして抗生剤やステロイドのない時代ですので、一般の人々も自家製のモグサを使って、風邪、肺炎、結核、胃腸炎、関節炎など日常の病気を治療していました。
以前ある読者から以下の手紙を頂いたことがあります。
「私がお灸に興味をもったわけを話してみましょう。私が中学を卒業した昔のことになります。我が国に結核(肺病)が大流行した時期がありました。各地に隔離療養所ができて人々は恐怖におそわれました。感染した私も吐血して、医者に「今の医学には確かな治療法はない」と宣告されました。この絶望を救ったのは母の一言です:「お灸をしてみよ」。私は今年九十歳です。百歳までお灸をさせていただきます。」
二十世紀の前半と中期頃には人々の命を脅かすのは伝染病でした。中にも結核病は一番死亡率の高かったです。1935年に日本の結核患者は120万人を超えました。当時は結核に有効な薬はなく、灸療法は唯一効果的な治療法として日本全国で「国民三里灸運動」が行われ、大勢の人々の命を助けることができました(「三里」はツボの名前で、足の脛の筋肉上にあります)。
うちの治療院にいらっしゃる七十歳以上の患者さんには、ときどき背中に大きなお灸の跡が見られます。昔抗生剤のなかった時代に、お灸は病気の予防と治療に大きく役立ったことを物語っているように思えます。
ポピー
麦ナデシコ、青空は最高ですね!